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田口鉄道は「奥三河へ鉄道を!」の声を具現化して敷設されたと聞く。経済発展や人々の生活向上も望まれた故であらう。 これ以上は、田口の地元民でもなければ当時を知らぬ私が物申したところで「妄言」にしかならぬため、他所へ譲る。
が・・・川沿いの駅を田口の人々が利用するには不便であり、地元の人々は「まちなか」まで鉄道を延伸して欲しかったのも本音だらう。
仮に私が田口の住民であつたとしたなら、さう思ふに違いなひ。田口の町から三河田口駅までを当時連絡バスが走ったと云う現・県道33号を実際に歩いてみて痛感した。
話が支離滅裂になってゐるが、田口線跡をレポートしているサイトは散見されるも、鉄路重視のためか「田口の町と田口駅」を結んでいた連絡バスに関する内容が見当たらない。
国内の「廃線跡」を一様に扱っているのなら兎も角、田口線のみ言及しているのであれば、連絡バスについても触れておくのが筋であらう。田口の町まで届いて初めて
「田口線」と云へるのではないだらうか?と私は勝手に思っているのだが如何なものか。言葉が過ぎているかと思ふので、この場を借りてお詫び申し上げる。
私には当時の資料を集めるだけのコネも情報網も力量もなひため、せめて連絡バスが走ってゐた「道路」を辿ってみた。
この道が当時の田口の人々が望んだ「田口線延伸」の代替だと思えてならなひ・・・からである。そしてこの県道33号の一部も設楽ダム完成とともに、
三河田口駅跡同様、湖底に沈む運命にある。すでに周辺の道路状況は工事のため一変しており、当時の様子を留めてゐる時間もそう長くはなひであらう。
私(筆者)が18歳になり自動車免許を取るまで、我が家は「自家用車」とは無縁であった。経済的に恵まれてゐなかったことに加え、両親は自動車免許を持っておらず、そんな背景から幼き頃からどこへ行くにも「公共交通機関」つまりはバスや電車の利用が当たり前。 両親の実家はもちろん、親戚縁者の家へ行くときはちょっとした「旅行気分」で、 電車を2回、3回と乗り換えるのも日常茶飯事であった。名鉄(名古屋鉄道)バス・電車は日常の「足」で、なくてはならぬ存在だったのである。
そんな名鉄バスも、私が高校生になる頃には田舎の町でも車の普及が進んだせいか一気に減便となった。以前は上下線合わせて毎時間4便があり、朝は6時から、夜は9時まであったものがあれよあれよという間に無くなり、通勤通学時間はともかく日中は半減。さらに10時台とか14時〜15時台はゼロ。朝の6時台、21時台もゼロとなった。日曜に至っては、 通勤通学時間帯の便数は極端に減ってしまった。クルマのない我が家にとっては手痛いものだったのである。
最寄りの鉄道駅へ行くにしても、2〜3キロ離れており、雨天においては徒歩移動するにも気が滅入る。手荷物持ってとなれば尚更で、こうなるとタクシー利用も。 帰宅(下校)の際、高校生の分際で最寄りのJR駅から自宅までタクシー移動、なんて事も頻繁でないにしろ珍しいことではなかった。アルバイトで小遣い銭を稼いでいたおかげもあるのだが・・・。
田口線廃線跡を辿りながらそんな昔のことを思い出して、当時の人々の気持ちに自分の体験を重ねてみたりもする。
母の実家へ向かうときに利用した路線も随分前に廃線となってしまい、ホームだけがぽつりと残った当時の降車駅にも訪れてみた。
なぜ田口線と何の関わりもない「よそ者」の私が、こうも廃線跡巡りにアツくなっているのか?その理由はこんなところにあるのかもしれない。