h めるてぃんぐぽっと / 田口線の痕跡を探して 旧 田口線 連絡バスと 三河田口駅

半世紀余の時を超え、廃線跡を探す

Chase the Shadow of OLD TAGUCHI Railway

















 

田口線に求められたもの

 田口鉄道は「奥三河へ鉄道を!」の声を具現化して敷設されたと聞く。経済発展や人々の生活向上も望まれた故であらう。 これ以上は、田口の地元民でもなければ当時を知らぬ私が物申したところで「妄言」にしかならぬため、他所へ譲る。

 が・・・川沿いの駅を田口の人々が利用するには不便であり、地元の人々は「まちなか」まで鉄道を延伸して欲しかったのも本音だらう。 仮に私が田口の住民であつたとしたなら、さう思ふに違いなひ。田口の町から三河田口駅までを当時連絡バスが走ったと云う現・県道33号を実際に歩いてみて痛感した。

 話が支離滅裂になってゐるが、田口線跡をレポートしているサイトは散見されるも、鉄路重視のためか「田口の町と田口駅」を結んでいた連絡バスに関する内容が見当たらない。 国内の「廃線跡」を一様に扱っているのなら兎も角、田口線のみ言及しているのであれば、連絡バスについても触れておくのが筋であらう。田口の町まで届いて初めて 「田口線」と云へるのではないだらうか?と私は勝手に思っているのだが如何なものか。言葉が過ぎているかと思ふので、この場を借りてお詫び申し上げる。

 私には当時の資料を集めるだけのコネも情報網も力量もなひため、せめて連絡バスが走ってゐた「道路」を辿ってみた。 この道が当時の田口の人々が望んだ「田口線延伸」の代替だと思えてならなひ・・・からである。そしてこの県道33号の一部も設楽ダム完成とともに、 三河田口駅跡同様、湖底に沈む運命にある。すでに周辺の道路状況は工事のため一変しており、当時の様子を留めてゐる時間もそう長くはなひであらう。




画像左側が三河田口駅跡へ続く。
しかし、駅跡は工事用車両仮設道路の降り口となり、往年の名残は消え去ってゐる。




県道33号より木々の間から三河田口駅前跡が伺へる。倉庫の赤い屋根がその証であらう。
木々を取っ払って駅跡の景色を見てみたひ。




田口へ向かえ(国道257号)という道路標識。




県道33号に出て三河田口駅から田口の町へ向かう。勾配に注目。




田口の町へ向かう。勾配に注目。
前画像撮影地点より徒歩4分後。




勾配がさらにきつくなる。
前画像撮影地点より徒歩5分後。




田口の町へ向かう最初の難所。次の画像で納得するだらう。
前画像撮影地点より徒歩3分後。




F-1 モナコGPのヘアピンカーブ(ロウズヘアピン)を彷彿とさせる、といったら言い過ぎか?
その昔はボンネットバスがここを走っていたのだ・・・しかも未舗装。




ヘアピンあたりで、ダム湖上を通る橋を建設中の様子が伺える。





カンチレバー工法による橋の設置。





ヘアピンカーブを抜け、さらに田口へ向かう。
前画像撮影地点より徒歩3分後。




緩やかになるものの登り勾配はさらに続く。
前画像撮影地点より徒歩3分後。




鹿島川を渡る田尻橋にさしかかる。
前画像撮影地点より徒歩2分後。




田尻橋。当時と同じ橋梁ではなく架け替えられてゐるはず。





落差を流れる鹿島川。ちょっとした名瀑かも?
田尻橋から望む。




田尻橋から田口へ向かう途中にある看板。





田尻橋から田口へ向かう道路。画像左上に、さらに上へ向かう道路が写る。





田口へ向かう第二の難所。ヘアピンカーブを抜けると切通しとなる。





ヘアピンカーブを立ち上がり田口へ向かう。





上り側から望むヘアピンカーブの様子。





上り側から望む切通しの様子。
ヘアピンを抜け田尻橋へ下っていく。




町へ向かって蛇行しながら、きつい勾配を上る。





ガードレール右側の木々に注目。
設楽ダム完成時、青テープが巻かれているところが満水時の水位。
ここまでの画像場所は湖に沈む、を意味する。




田口変電所界隈。ようやく人家の近くへ辿り着く。
三河田口駅跡から、徒歩でおおよそ30分である。




田口の町近くへ出る。右の家はすでに空き家となってゐる。
満水時の湖面から徒歩で6分ほどの位置だ。地元民の心情はいかほどのものか、計り知れない。
画像中央に見へる電柱を超えると、ようやく道も平坦になってくる。





町の外縁へ達する。Y字の分岐路となるが左へ進むと設楽警察署の裏手に出る。
右へ進むと間もなく257号へ出る道となる。




257号線沿いにある田口バスターミナル(田口バス停)
画像左側、奥にバス車庫が見える。撮影する前、田口高校の生徒がベンチに座って居た。
田口線現存当時も、「まちなか」のバス停を巡回したのやも。
撮影日:2025年10月28日


田口駅から「まちなか」まで、当時バスでどのくらいの所要時間だったのだらうか?
画像を通して見ていただければ、道中の勾配がどんなものか分かっていただけるのではないかと思ふ。
逆順で「まちなか」から田口駅までの下りは、ジェットコースター気分だったであらう。

田口駅から町中心部までの距離は約2.1kmで、標高差は150mほど存在すると云われている。
この落差(勾配)を駆け抜けるには鉄道車両では無理であらう。





県道33号を三河田口駅跡から豊田方面へ小貝津橋を渡ると、このような光景が広がる。
一般車両と工事車両と道路が分けられてゐる。工事規模の大きさが如何様なものか伺えやう。

☆ 指定なき画像は 2025年10月7日撮影 ☆


路線は消えゆけど・・・

 私(筆者)が18歳になり自動車免許を取るまで、我が家は「自家用車」とは無縁であった。経済的に恵まれてゐなかったことに加え、両親は自動車免許を持っておらず、そんな背景から幼き頃からどこへ行くにも「公共交通機関」つまりはバスや電車の利用が当たり前。 両親の実家はもちろん、親戚縁者の家へ行くときはちょっとした「旅行気分」で、 電車を2回、3回と乗り換えるのも日常茶飯事であった。名鉄(名古屋鉄道)バス・電車は日常の「足」で、なくてはならぬ存在だったのである。

 そんな名鉄バスも、私が高校生になる頃には田舎の町でも車の普及が進んだせいか一気に減便となった。以前は上下線合わせて毎時間4便があり、朝は6時から、夜は9時まであったものがあれよあれよという間に無くなり、通勤通学時間はともかく日中は半減。さらに10時台とか14時〜15時台はゼロ。朝の6時台、21時台もゼロとなった。日曜に至っては、 通勤通学時間帯の便数は極端に減ってしまった。クルマのない我が家にとっては手痛いものだったのである。

 最寄りの鉄道駅へ行くにしても、2〜3キロ離れており、雨天においては徒歩移動するにも気が滅入る。手荷物持ってとなれば尚更で、こうなるとタクシー利用も。 帰宅(下校)の際、高校生の分際で最寄りのJR駅から自宅までタクシー移動、なんて事も頻繁でないにしろ珍しいことではなかった。アルバイトで小遣い銭を稼いでいたおかげもあるのだが・・・。

 田口線廃線跡を辿りながらそんな昔のことを思い出して、当時の人々の気持ちに自分の体験を重ねてみたりもする。 母の実家へ向かうときに利用した路線も随分前に廃線となってしまい、ホームだけがぽつりと残った当時の降車駅にも訪れてみた。 なぜ田口線と何の関わりもない「よそ者」の私が、こうも廃線跡巡りにアツくなっているのか?その理由はこんなところにあるのかもしれない。




小貝津橋からの涼し氣な眺め




ダム工事が始まる前は、廃線跡を通って清崎へ行くことが出来た。
かつては赤い線の方向へ進めば「三河田口駅」があった。

 

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