田口鉄道 田峯駅と 清崎駅の間

半世紀余の時を超え、廃線跡を探す

Chase the Shadow of OLD TAGUCHI Railway

















 

長原前(ながらまえ)駅がどこにあったのか、考察する

 開業から時間が経ち、太平洋戦争が終わって世の中が落ち着き始めた昭和25年10月、長原前駅は開設された。付近に清嶺中学校が開校したことに因ると云われてゐる。 沿革は他所に任せるとして、田口線跡を追いかけていくとところどころ霧に包まれたやうにはっきりしない事象に出くわす。ながらまえ駅はまさにそれである。

 ネット上では先達諸氏がアップロードされたいくつかのサイトで「ながらまえ駅」が取り上げられてゐるが、それらを読み込んでいくと個人的に解せない部分がいくつか見受けられる。 各人の所見によるものなので、どれが正しい、間違っていると云ふつもりはないが、実際に現場へ出向きあれこれ見渡してみるとネット上の情報と比べて「腑に落ちない」こともあるわけで。 そもそも80年も前の状態がどうだったのか?と検証するにしろ、数少ない残された文献や古い写真からでは「正解」を導くことは無意味なのかも知れぬ。3時間というわずかな時間だったが、現地に滞在して「私自身が独断と偏見で勝手に導き出した妄想」を記しておこうと思ふ。

50年以上前に崩壊している

 余談ながら、昭和48年8月29日・・・台風により長原前駅付近は土砂崩れで運行不可に陥っていた。奇しくも廃線2日前の出来事である。閑話休題・・・  現在、長原前駅にアクセスするには、田口側から清嶺トンネルを抜けて直ぐに左へ曲がる道へと入る。寒狭川に沿って進むと、侵入口からそれほど遠くない場所、 左側に崩れた坑口(隧道入口)が進行方向とは逆側に確認できる。これが「清崎第三隧道」の遺構となる。現在の路面より高い位置にあるが、これが田口鉄道の隧道であるのは田口線マニアには周知の事実。




 2025年5月1日撮影。清崎方面より国道257号から左折、清崎第三隧道出口へアクセスする道路。この先は、軌道跡となってゐる。
 矢印付近がポータルがあったと推測される場所。画面向こうは田峯駅へ向かって軌道が続いてゐる。


 ここでひとつ<<ポイント>>として押さえておきたい。この坑口の向こうは田口側、つまり清崎駅方面であるということ。この隧道自体は現在の清嶺トンネルの壁面にぶち当たり、 行き止まりとなってゐる。つまり現在の清嶺トンネルに吸収される。昔の清崎第三隧道も山を抜ければ清崎駅へ向かっているわけで、現道が整備された時点で昔の隧道は姿を消したのである。隧道(坑口)と列車の進行方向の関係は不変なので、これをすべての基準とする。

 私が個人的に解せなかったのは、むかし撮影された長原前駅の写真。隧道出口の左側にホームがある。それは現道257号からこちらへ侵入してきた道路上に駅があった、という事実。 侵入してきた道路右側は寒狭川であり、新清嶺橋が架かっている。ホームを置けるようなスペースはない。昔は現在よりもホーム側に土地があったはずであり、現在の国道257号も 通ってなかったであらう。新清嶺橋も清嶺トンネルも存在しないわけで、この界隈の土地の様子は今とはまったく異なる様相を呈していたに違いない。

 現在のこの景観が長原前駅の所在をうやむやにしている元凶であらう。 現在の軌道跡を田峯方面へ進むと、隧道入口を過ぎたあたりに「山神」の石碑が建っており、これを「駅跡」と推測するサイトページも散見された。だとすれば、隧道の向かう方向は、 清崎ではなく田峯方面になってしまう。この矛盾は看過できない。字面だけでは理解し難いので図を参照していただきたい。

 

 長原前駅。清崎第三隧道を出てきた列車。隧道を出てすぐに駅があった。列車は田峯方面へ向かっている。
 現在「山神」の碑は、画像右の石垣側にある。この碑を駅跡とするには矛盾が・・・
 広義では間違いではないが、ホーム跡が軌道の右側なのか左側なのかを示すには不確定。




 2025年5月1日撮影。清崎第三隧道出口の画像。ポータルは崩れ去り駅を思わせる痕跡は何もない。
 ホーム側は廃線後、度重なる土砂災害により、崩落してしまったと考える。ならば隧道出口の高さが現道より上なのも納得できる。
 もしかしたら、昔の路盤は現在の軌道跡よりも高い場所にあったとも考えられる。
 周知の通り、内部には水が溜まっており池のやうになってゐた。







 2025年5月1日撮影。清崎第三隧道ポータルの残骸、と言えなくはない。画像右側に坑口が見える。
 駅跡が残らないのも頷けよう・・・。




 2025年5月1日撮影。清嶺トンネル、清崎方面を望む。トンネル中央付近の右側壁が、田口線清崎第三隧道との交点と推測する。    



RETURN