三河大草駅を出発した列車は、6つの隧道とひとつの橋梁を超えて鳳来寺駅にたどり着く。現在もその足跡(そくせき)を辿ることは可能だが、ひとつだけ闇に葬られた場所がある・・・。 大草側から進むと峰第四隧道を抜けやや下り勾配となった傘川橋梁を渡り、丘陵に沿って緩やかに左へとカーブしながら、今度はなだらかな登り坂を進んでいくと峰峠を成す山へ飲み込まれるかのように潜っていく。これが万寿隧道である。339メートルの闇を進み、やがて下り勾配に転じた隧道を抜け、林に囲まれた切り通しに出ると間もなく荘厳な造りの2階建て駅舎が見えてくる。これが鳳来寺駅である。
勝手な妄想に基づいた主観だが、おそらくそんな感じなのだらう。しかし今となってはその万寿隧道はもちろん、鳳来寺駅も見る影もなひ。現在の県道32号が当時の軌道跡そのままに残って居るが、古い写真と見比べると当時の様子を伺い知ることは出来ぬ。20年前くらいにはまだ鳳来寺食堂が駅舎の跡に建って居たと云ふが、今は無料駐車場へと変貌してゐる。
当時を知る生き証人として唯一、紅葉の木がひっそりと佇んでいる。
鳳来寺駅の写真は数多く残されているが、悲しいかな万寿隧道の様子をうかがうことの出来る画像は皆無(だらう)。どこかで死蔵となっているやも知れぬが、機会があれば是非見てみたひ。以前、私なりに妄想逞しく万寿隧道跡を探索した際の画像と、無許可ながら昔の写真を転載しながら当時の田口線の様子を想像しやうと思ふ。
峰第四隧道を出て橋梁に差し掛かる列車。架線柱が傘川橋梁であることを誇示してゐる。
対岸(手前側)にも橋桁のコンクリート製基台が見て取れる。
<無許可転載、深くお詫び申し上げます>
田口線敷設、間もない頃の写真。万寿隧道方面、傘川橋梁付近。峰第四隧道側から望む。
待ち望んだ当時を知ることの出来る素晴らしい画像である・・・の一言に尽きるが、ひとつだけ解せないことが。
橋梁を渡った後の軌道の曲率(R)が現在辿れる軌道跡と比べるときつく感じてしまふのは氣のせいだらうか?
峰第四隧道方面へ移動する貨物車両。(後追い画像)現、県道32号から見上げる。
軌道跡。林の切れ目が傘川橋梁の対岸となる。
撮影日:2025年3月2日
軌道跡。傘川橋梁方面を背に、万寿隧道側を望む。
奥へ進むと軌道の両側は台形に築かれた築堤だとよく分かる場所がある。
この軌道跡は、やがて現・県道32号と交錯するが、道路建設の際、従来の高さよりも嵩上げされており
かなりの上り勾配となってゐる。田口線の頃とは状況が異なってゐるであらう。
撮影日:2025年3月2日
県道32号より、軌道跡・傘川橋梁方面を望む。黄線あたりから盛り土され勾配がきつくなってゐる。
撮影日:2025年3月2日
1960年代の航空写真。田口線軌道は山の斜面へ潜るように消えている。ここが万寿隧道の南側坑口であらう。
現在の消防署と民家の間あたりではないか?と云われている。青線は現・県道32号。
フリーハンドなので正確さには欠けるが
ヘアピンカーブが軌道を分断している様子は分かっていただけるかと思ふ。
先述した道路建設の盛り土による勾配や林の画像はこの部分である。
傘川橋梁方面より続く軌道跡から県道32号と交錯する位置で、万寿隧道入口(鳳来寺方面)を望む。
道路面よりずいぶんと低い位置を、向こう側の林へ続いてゐたと思われる。
撮影日:2025年3月2日
県道32号を渡り、万寿隧道方面を望む。周囲より一段低くなっているため、ここを軌道が通って居たのではと推測する。
残念ながら、路盤や築堤らしき痕跡は見つけられなかった。このまま進むと民家の盛り土部分に突き当たる。
林野内には小規模ながら川が流れており、鳳来寺方面向かってこの川の右側に路盤があったのではないだらうか?
もう少し北進した部分(消防署駐車場南壁付近)に万寿隧道の南側坑口が存在したであらうが地下に埋もれ、確かめる術がなひ。
撮影日:2025年3月2日
峰峠の山中を潜った軌道は、鳳来寺側へと抜ける。当然出口側も埋められており、隧道の遺構を確かめることは出来ないが
軌道があったであらう「名残」を感じ取ることは出来やう。
1960年代の航空写真、鳳来寺駅付近。(国土地理院HPより)
隧道出口の右側に今も残るT字路が確認できる。北坑口は現在某建設会社所有の車両が停めてある駐車場となってゐる。
現在のT字路の様子。標識の下、ガードレールの切れ目があるが、ここが坑口出口へと繋がる部分となる。
この先、道路を左折すると鳳来寺山・表参道入口(鳳来寺駅跡)へ向かう。
撮影日:2025年2月11日
道路標識下、ガードレール切れ目で左側に視線を向けると、「すわ、軌道跡か!?」と思しき光景が広がる・・・
左側は切り通しらしき崖、右側は樹木が生い茂るが、その間はちょうど軌道跡のやうな幅が残ってゐる。
だが隧道坑口跡とするには、地面が高すぎる。峰峠を越えるアスファルト道路と大して変わらない・・・
おそらくは埋め戻した跡なのだらう。空洞のままでは崩落の危険があるため、隧道を崩したと推測する。
撮影日:2025年2月11日
某建設会社の駐車場に続く、田口線軌道跡と思われる場所。鳳来寺駅方面を望む。
右は県道32号が通っており、駐車場よりも高い位置にある。当時の写真を見る限りは、この撮影場所はもっと低かったはずである。
撮影日:2025年2月11日
同撮影場所から、道路標識側を振り返る。写真ではわかりずらいが、一段土地が高くなってゐる。
おそらくはこのあたりに万寿隧道・北坑口があったと思われる。当時の高低差は今よりも急峻であったらう。
撮影日:2025年2月11日
万寿隧道を出て鳳来寺駅へ向かう(と思われる)田口線車両。画像左上に道路が見えるが現・県道32号。
路盤と道路の高低差がはっきりと分かる。隧道入口が低いところにあったのを裏付けてゐる。
<無断転載、申し訳ありません>(引用元・田口線の残影)
・・・そして、鳳来寺駅へ到着する。
私が知りたかったのは、鳳来寺口駅(本長篠駅)から鳳来寺駅まで、旧田口線がどこをどう通っていたのか?である。
興味を持ち始めて半年、ようやくその目的はほぼ達せられたと言っていいだらう。各所で撮影した画像も総数600枚を超える。
峰隧道群、傘川橋梁跡から万寿隧道前後の軌道跡は実際に訪れてみないことには、ネット情報だけで掌握出来ぬものであった。
これだけの規模を誇る鉄道を奥三河に通した熱量は、計り知れなひ。まもなく満州事変を迎えやうとしてゐる時代に・・・である。
ざっと辿れるところは攫ってみた。しかし「田口線」と云ふ限りは、その名前の由来となる三河田口まで探訪せねばなるまい。
が、しかし悲しいかな田口線に興味を抱くには時間が遅すぎた。
すでに設楽ダム工事により、三河田口駅跡、第三大久賀多隧道へは行くことが出来なくなった。最近、CBCテレビ放送の道との遭遇で、
(2025年4月8日放送分)ダム工事現場にて撮影が行われ、変わり果てた<三河田口駅跡>と<第三大久賀多隧道>が映し出されてゐた。
もう直接見ることが出来ぬ場所ゆえそれはありがたいことだったが、もっと早く田口線に気づいていたら、と悔やまれてしかたない。
(番組中でわずかだが、当時の田口鉄道の動画も観ることが出来た)
それでも、通行止めになる大久賀多第二隧道までは辿って写真も撮ってきた。長原前駅(清崎)から先の田口方面は、軌道跡はそのほとんどが舗装路に変貌しており
廃線跡という雰囲気とは程遠い。玖老勢から田峯間も当時の芳香はほとんど失われたと云っていいだらう。時間があれば、残りの画像もコメントを添えながら
アップして行きたいと思ってゐる。所詮は先達諸氏の2番煎じであるが、2025年の田口線遺構を感じていただけたらと思ふ。
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大久賀多・入道ヶ嶋隧道群
☆ New Issue ☆ / Updated / 2 July '25